2024年10月29日

27日(THE GO AND MO’Sを観た。)

『黒川寄席 DX Vol.3』脚本+出演・黒川猛、出演・福田恵+玉田玉山+大熊ねこ+
二口大学、東福寺のSPACE LFANにて。

黒川さんの落語台本を、4人の手練れが自由自在に演じる。パンダさんのアレは落語
か? ファンタスティック歌劇団の第2作といった感じでしたけれど。リラックスした
気分でとっても楽しめる怒涛の100分でした。パンダさんが、ものすごく美しく神々
しく見えたのはなにかの錯覚だろうか。あ、女神さまだっけ。
posted by yu-gekitai at 15:55| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

26日(劇団未来を観た。)

winmail.dat
『サド侯爵夫人』作・三島由紀夫、演出・松永泰明、未来ワークスタジオにて。

客席に着き、まず、舞台美術の、抽象的な美しさにときめいた。が、である、純白で
統一されてあるのに、しつらえてあるテーブルが焦げ茶色のリアルなもので、卓上の
食器もまたである。空間と舞台上の置き道具に違和感があることに気づく。なにか仕
掛けがあるのかと疑っていたら、確かにあった。だがそれに失望させられてしまっ
た。

俳優のみなさんの奮闘は称えるべきなのかもしれない。が、その奮闘は不要だったと
しか私には思えない。戯曲通り女性6人で演じられるのだが、台詞に語られている人
物が実際に舞台に登場し、それを台詞にあわせてマイムで演じる。だから本来の登場
人物ではないサド侯爵も、3人の娼婦も、黒ミサの司祭らしき人物も登場する。戯曲
の上ではラストシーンの一歩手前で寸止めを食らい、結局のところ登場が許されない
サド侯爵の登場頻度も高い。俳優は自身の配役以外にそれらの役も演じることとな
る。

演出の松永さんは、台詞のチカラを信用できないタイプであるらしい。どんどん舞台
上に説明あるいは解説を加算してゆく。雰囲気づくりを狙ったと思われる照明効果や
BGMの多用も、いうならば説明にすぎない。違和感のあるテーブルは第2幕で、黒ミサ
の儀式の視覚的説明に利用された。ただし、第2幕のラストのルネの台詞、「アル
フォンスは、私だったのです」は、ルネが視覚的にもサド侯爵と一体となったこと
で、秀逸な絵となって、ドキリとさせられた瞬間だった。

ラストには禁を破って(何度目かの)サド侯爵の登場となるわけだけれども、舞台上
でシャルロット役の俳優さんが、帽子やマントのような扮装を解いたらサド侯爵で
あった、ということになるのは、観客を混乱させ、大きな誤解を招くことになると思
う。

私は俳優たちの身体から溢れ出る台詞を全身全霊で受けとめたかった。好みが合わな
かったということだろう。
posted by yu-gekitai at 14:42| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月15日

13日(劇団ジャブジャブサーキットを観た。)

winmail.dat
『正劇オセロと貞奴』構成+演出・はせひろいち、〈劇中劇『正劇オセロ』原作・
シェイクスピア、翻案・江見水陰、潤色・はせひろいち〉、ウイングフィールドに
て。

案内状をいただいて、これはオモシロそうな公演だと察知して、なんとしても観た
い、と思いました。森田雅子先生の労作「貞奴物語 禁じられた演劇」(ナカニシヤ
出版)で予習をしてから、劇場へ。

簡単すぎる評伝的な流れと、劇中劇的な「正劇オセロ」の短縮版とを併せて65分くら
いの上演で、これは意外。2時間前後の上演時間になるのではないかと勝手に思い込
んでいました。評伝的な部分である、冒頭の、川上音二郎と貞との無謀な船旅が基調
を成しているようで、「オセロ」でも、雨音などの効果音が頻繁に鳴りつづけるのは
演出の戦略だと感じました。私にはその意図はわからないけれども、それが好ましく
思えた。また、ほとんどを、椅子に腰かけての演技であったのも、ウイングフィール
ドという空間での無駄な動きを封じる、というこれまた演出的戦略、と穿ち過ぎであ
ることを承知のうえで、いいきってしまいたい。理由はといえば、些細なことかもし
れないけれど、本作を擁護したくなるような、私にとって好ましい公演だった、とい
うことに尽きる。ただし不満も多々ある。ひとつだけ記せば、オセロと、デスデモー
ナをはじめとするヴェニス在の登場人物とのあいだにあるはずの、人種と宗教の問題
にまったく触れていないことだ(単にコトバではなく演技として)。でなきゃイアー
ゴーの立場がないではないか。『オセロ』という戯曲の肝はそこにあるはず、と私は
思うのだが。

森田雅子先生の本には『正劇オセロ』の当時のポスターやデスデモーナの寝室の場面
の舞台写真が掲載されていてありがたい。

余談ですが、ジョンズ・チルドレンという英国のバンドに「デスデモーナ」という、
ヒットとは縁のなかったシングル曲がある。ティラノザウルス・レックス(後のT・
レックス)結成以前のマーク・ボランがギタリストで、作詞作曲も彼だ。リード・
ヴォーカリストが居るので、マーク・ボランはバッキング・ヴォーカルにまわってい
て、独特のヴィブラートをきかせた声を響かせている。私の耳にはデスデモーナでは
なく、デッセモーナと聞こえる(耳が悪いんとちゃあいますか)。
posted by yu-gekitai at 10:44| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月07日

6日(劇団五期会を観た。)

winmail.dat
『流れ星』作・宅間孝行、演出・井之上淳、ABCホールにて。

五期会の若手中堅俳優さんたちの、進境の著しさを感じさせる楽しい舞台だった。演
出の手つきは細やかで丁寧で、舞台への愛情を感じた。舞台というよりは俳優たちへ
の、かもしれない。

昨日観た清流劇場さん同様、この舞台からも、吉本新喜劇の匂いを感じたのだが、そ
れは戯曲に対してのものだ。現代劇を装いながら、魔女が出てきて魔法を使い、タイ
ムマシンで過去へ戻り、という安易なありふれたファンタジーである。そういうモノ
ガタリの荒唐無稽さが私に、吉本新喜劇を思い起こさせたのかなと思う(吉本新喜劇
さんゴメン)。あり得ないシチュエイションにおけるドタバタゆえに、俳優たちが
光って見えたのかもしれない。しかし、キャラクターを演じるという観点においては
輝いていても、それがニンゲンを演じるという俳優の本質的な表現領域にあるのかど
うかはギモンである。

私は、この戯曲を、構成の巧みさという点で否定はしないが、容認することもできな
い。そもそもが五期会さんのホンではない。借りものである。ではなぜこの戯曲が選
ばれたのかは私には想像するしかない。例えばモーツァルトやベートーヴェンなら
ば、その残された楽曲は現代においてもなお、繰り返し演奏される。大衆から愛され
る歌謡曲やポップスは、あまたカヴァーされ、カラオケで熱唱される。舞台表現者も
モーツァルトやベートーヴェンやヒット曲歌手にならなければならないなどとはいわ
ないけれども、そこには公演の眼目となるクリエイションがあってしかるべきだ。戯
曲の創作と同じように、借りもので上演する場合、そこに演出的な創造があるのかど
うかが問われるのではないか。これは私の偏狭な考えだろうか。

実は私も、この戯曲を、ってこれですよ『流れ星』を、演出(!)したことがあるの
です。某高校の文化祭での発表のです。生徒たち自らの演出でしたが、私が指導を担
当しました。ですから正式には演出者としてのクレジットはありません。観劇中もそ
の後も、その時の稽古の現場風景が甦ってきました。あれはたしか地理教室が稽古場
だったかな。生徒みな生き生きと楽しく、かつ厳しく稽古を積んで、みるみる上達し
ました。演出的なクリエイションアはなかったです。どの口がゆうてんねん、って感
じですね。そういう意味では、良い戯曲なのです。
posted by yu-gekitai at 08:00| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5日(清流劇場を観た。)

winmail.dat
『ヘカベ、海を渡る』原作・エウリピデス、上演台本+演出・田中孝弥、一心寺シア
ター倶楽にて。

原作を改変し、大阪弁での上演。私は、30年以上は昔に観た、吉本新喜劇による近松
門左衛門の『曽根崎心中』を思い出していた。新喜劇の役者さんたちがギャグを封印
して、まさかという古典への挑戦であった。演出はシアタースキャンダルの玉井敬友
さん(お元気にしておられますか?)。

ギリシア劇であるからして台詞が饒舌で心の裡までをコトバにしてしまう。大仰すぎ
る所作。そして音楽の自己主張。それらは吉本新喜劇での既視感を呼び起こす。

ギリシア悲劇+吉本新喜劇。感想はこれに尽きる。俳優の演技は力強く、アクが強
い。ヘカベと侍女以外の6人はひとりで何役をも演じ分ける。ヘカベ以外はコロスと
しても登場する。私は楽しく観劇した。しかし、ベタベタの大阪弁というのは強烈だ
な、と泉州弁での芝居をやっている私もあらためて思う。オマエがゆうな、てか。東
京公演も控えているので、そちらでの反響が楽しみだ。

個人的なことを蛇足として追記しますが、ミザンスや動線の取り方など、演出の〈や
りくち〉は、私も田中氏に近い。しかし、決定的な違いがあって、音楽の使用法を含
めての好み、いうなれば美意識が、相反する。だから気楽に楽しめたのだ。どちらが
いいとか悪いとかじゃないですけれど。
posted by yu-gekitai at 06:34| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月04日

3日(『方舟にのって』を観た。)

winmail.dat
サブ・タイトルに「イエスの方舟45年目の真実」とある。監督・佐井大紀、2024年、
TBSテレビ。製作はTBSテレビだけど、劇場用ドキュメンタリー映画である。

イエスの方舟という団体には、カルト教団として世間からバッシングを受けていたの
で、少しは興味を持っていました。おっちゃん、と信者から親しみを込めて呼ばれ、
メディアからは、千石イエスと称された方そのひとにも興味がありました。当時、信
者とされる方がたは若い女性ばかりで、みんな現代的でスマートな美人ぞろい。ハー
レムを形成しているといわれました。千石イエスこと千石剛賢氏が2001年に亡くなっ
て以降も、団体はしっかりと継承されていることは、なんだかうれしかった。

だけど、映画としてはとても残念。TBSに残された当時の映像のつぎはぎと、現在も
残る、あるいは新しく参加した、イエスの方舟の方がたへのカンタンなインタビュー
と、鳥越俊太郎氏の証言でつないでみせるだけで、対象への愛情も、映画を深化させ
ようという執念も感じられなかった。製作者側の視点が明瞭でないとでもいえばよい
のだろうか。もっと取材対象の方がいなかったのだろうか。鳥越氏に頼りすぎてい
る。当時あれだけ騒いだジャーナリズムへの批評が立ち上がらないのは無残である。
テレヴィ局の製作ならば、ジャーナリズムを担うものとして、逆にもっと、踏み込ま
なくてはいけない部分があったのではないかと思う。映画をバカにしないでくれ。
posted by yu-gekitai at 16:19| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする