2024年11月26日

24日(劇団しし座を観た。)

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『夜明け間際にフルコース』作・竹内介、演出・北川隆一、ABCホールにて。

いわゆるファンタジーである。現在のこの世の中で、生きるためにファンタジーを必
要としている人々がいるだろう。必要としているどころか、その世界の住人となって
しまっているひとも、きっと多いに違いない、と思う。この芝居はそういった人たち
に向けての演劇だろうか。

大阪劇団協議会フェスティバル参加作品では、人形劇団クラルテさんの公演はまさし
くファンタジーだった。だが、なにかが違う。人形と生身の俳優の演じる舞台の違
い。いや、そうではない。では、宮沢賢治の原作、東口次登さん脚色による『銀河鉄
道の夜』と、なにが異なるのだろう。

まず、竹内介さんの戯曲の手触りというか感触が、劇団五期会さんが上演した『流れ
星』に似ている。『流れ星』も『夜明け間際にフルコース』も、魔女や死神が登場し
て、現実ではありえない(都合の良い)登場人物の関係性やモノガタリの展開でス
トーリーが進行し、優しさや切なさに満ちた幕切れで涙を誘おうとする。昨日観せて
いただいた劇団きづがわさんの『パートタイマー・秋子』では、今そこで生きて息づ
いているかもしれないニンゲンのたくましさが、鮮やかな幕切れとなった。そこには
リアリティーというべきものを感じることができた。

ファンタジーという括りでいえば、ルンチェルンバシアターさんで観せていただいた
『星の王子さま』を引き合いに出してみてもよい(コチラも東口次登さんの脚色
だ)。『銀河鉄道の夜』も『星の王子さま』も、幕切れは厳しい。原作の良さと作劇
の素晴らしさと相まって、世界とはかくなるものかなと自覚させられる。ちょっと哲
学的であったりする。それはカンケイないか。

ややこしい物言いとなっているが、私は演出をさせていただく立場のニンゲンとして
解答(らしきものであっても)を見つけておきたいと考える。ファンタジーの対義語
はリアリティである。もう答えは出ているのも同じである。

リアルとリアリズムとリアリティー。演出をさせていただく立場のニンゲンとして、
その3つの単語を自分流にひも解いてみる。リアルとは、リアルである、とトボけて
みせているのではない。リアルとは演劇を離れての現実そのものであって、演劇とい
う表現の規範となるものだ。手前勝手な解釈で申し訳ないけれど。リアリズムとは本
物らしさ、リアルをなぞること。だから日本人には海外演劇をリアリズムを通して演
じることはできない。ギリシア劇やシェイクスピアやチェーホフもモチロンのこと
「リアリズムでは演じられない」。理由は「日本人であるから」だ。同じように、た
とえ日本を舞台にした台本であっても、いわゆる時代劇や近代劇はリアリズムでは演
じられないのも自明の通り。それは「その時代を生きていない」からである。昨日の
ブログで、劇団未来さんの三島由紀夫作品を同列に扱わなかったのもそれが理由とな
る。そもそも舞台の板の上にはリアリズムなんぞははじめっから存在しない。俳優が
自身の役柄を演じるときの、ニンゲンとしての、行動原理に基づいた演技、それがリ
アリズムであろう。いかにも造りものの舞台上を、リアリズムをまとった身体が浮遊
するのである。そうして、どうなるか、リアリティが立ち上がるるのだ。まがいもの
にすぎなかった舞台上は、真実その世界となる。『銀河鉄道の夜』や『星の王子様』
のようにたとえ宇宙空間が舞台であっても、たとえ人形が演じようが、リアリティの
ある舞台その世界へ変容する。つまるところ、リアリズムの演技に耐えうる戯曲であ
るという前提があり、そこに重大な責任がある。

『夜明け間際のフルコース』や『流れ星』には、リアリティが欠落しているように私
には思える。ファンタジーの対義語がリアリティであっても、ファンタジーこそ、そ
の作品世界に強度をもたらすべきリアリティが必要不可欠なのだと思う。魔女が登場
したからでも輪廻屋と自称する死神が登場したからでもない。ドラマの創作とその製
作現場での構築の過程そのものにリアリティを求めなくてはならない。それは劇作家
の責任でもあり演出者の責任でもあろう。

ラストの、シャフのレシピ・ノートを登場させるシーンのその絵が抜きんでて美し
かった。転換作業とみなすこともできるだろうが、そこには舞台におけるリアリティ
を、私は感じることができた。あと、店主の妻(藤田千代美さん)が、とてつもなく
カワイカッタ。このことはリアルなことであるのか、リアリズムによるものなのかの
判断は、くだしようがない。
posted by yu-gekitai at 17:02| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

23日(劇団きづがわを観た。)

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『パートタイマー・秋子』作・永井愛、演出・林田時夫、大正コミュニティーセン
ターにて。

あくまで個人的な感想ですが、ひと昔の新劇、あるいは商業演劇を見ているようだっ
た。これは褒めコトバでもある。3時間近い長丁場を、飽きることなく安心して楽し
めて、時間の長さは気にならなかった。俳優のみなさんの演技もアンサンブルもそつ
なく、経験の豊かさが感じ取れた。演出の林田さんの、作品への愛情の深さが舞台か
らビシバシと伝わってきた。主人公の秋子を演じられた林田彩さんの個性が活かさ
れ、役柄としても適役で、世間離れした秋子の人物像にも納得させられた。二兎社で
の秋子の沢口靖子さんの幻を追いかけながら、なるほど沢口靖子さんのパブリック・
イメージともピッタリの役柄だなあ、などとも思った。

ここまでの私の作文をお読みいただいて、なんだか褒めているといいながら、煮え切
らない書きようだなあと感じられたと思う。『パートタイマー・秋子』は、今年7
月、二兎社さんが初演をした作品なのである。二兎社さんのオリジナル作品を上演す
る意味。考えうるに、東京でしか観ることのできなかった作品を、大阪で舞台に立ち
上げたものとして紹介する、ということになるだろうか。

同じ大阪劇団協議会フェスティバル参加公演でいえば、劇団五期会さんの『流れ
星』、劇団大阪さんの『親の顔が見たい』、来年1月に公演を控える大阪放送劇団さ
んの『こんにちは、母さん』(これまた永井愛さんの作)が、オリジナルではない借
り物の作品である。劇団未来さんの三島由紀夫作品はすでに、日本の古典・近代劇を
探る、という意義が深いと考えるので、私としては除外すべきだと考えている。

さて、表現とは、あるいは演劇の研究とは、芸術における運動とはなんなのだろう、
と考え込んでしまうと、答えは安易には出せない。けれど、現代においてギリシア劇
やシェイクスピア戯曲を上演するのと同じように、今、その戯曲を上演する意味を考
え抜き、そこから導かれる新たな視点を発見し、新奇であろうが珍奇であろうが新た
な表現法に挑戦する、いうなれば、演出的なクリエイション、あるいは、冒険がなけ
れば、もったいない、と思う。もちろん劇団の立ち位置、運営における妥協などさま
ざまな妨げになることがあるだろう。

ここ10年はあまり現代演劇の公演会場に足を運ぶことがなかった私は、最近ひんぱん
に観客席のひととなるうちに、こんなコトバが頭の中で誕生した。「カラオケ演
劇」。だけど、カラオケで聴いて感動する歌声もある。魅力的な人のたたずまいもあ
る。「カラオケ演劇」を、否定的な意味だけで使うのではない。しかし、今できるこ
との範囲内で、今まで通りにやり続けることの終着の浜辺には、死した貝殻すらもた
どり着かないだろう。これは、自戒を込めての、私自身へのコトバでもある。
posted by yu-gekitai at 10:29| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月18日

17日(劇団大阪を観た。)

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『親の顔が見たい』作・畑澤聖悟、演出・熊本一、谷町劇場にて。

この戯曲は私にとってすごくキツイと感じるものだった。キツイというのは作品レ
ヴェルのことではなく、その内容であり、登場人物に共感できないことにある。立場
が逆転すれば共感、ということになるのかもしれないが。とはいえ戯曲に内在する力
は圧倒的だ。

四方客席で舞台を取り囲む。舞台でのやり取りを見守る私は、観客というより、会議
室に招かれなかった2年3組の、生徒の保護者のひとりであるという気分にさせられ
る。ひとり一人が舞台を取り囲み、いじめ生徒の親たちの卑劣さを批判する社会全体
となる。立場が反転することの恐怖を押し隠しながら。この舞台構造は劇団大阪さん
の、演出者である熊本さんの発案によるものだろうと推測する(戯曲本での、劇団昴
による初演とみられる舞台写真では異なる)。これだけでもうこの公演の演出的な成
果は約束されたといえる。

舞台上には事務机というには立派すぎる机が2卓。同じく異様に高級感のある椅子が
(たぶん)12脚。それは客席背後に掲げられた、イエスを抱きかかえた聖母マリアを
描いた絵画とともに、その中学校がどのような学校でどういう教育方針を示すのかを
端的に表している。

俳優に与えられた動線は、2卓の机を縫うカタチでの「日」の字と1箇所の登退場口の
みである。シンプルな動線での移動の繰り返しと、基本的にはそれぞれが与えられた
席に着いているというミザンスは、私としては、完璧だったといっても許されるだろ
う考える。緊張感で張り詰めた空間での演技も見どころが多く、みなさん素晴らし
かったが、翠の父(上田啓輔さん)、志乃の母(夏原幸子さん)、愛理の母(東久美
子さん)、学級担任(七星さん)が強く印象に残った。出演者のみなさんが、登場人
物それぞれのもつ背景を丁寧に演じられていた。そういうことが可能であるのは、つ
まるところ戯曲の良さということになるのだろう。

音響効果に関しては、不必要なものがなかったか、距離感が妥当であったか、など気
にならないではない。

劇団未来さんと劇団大阪さんは、自前の小劇場を運営されていて、コトバは古くてス
ミマセンが、自家薬籠中の空間をお持ちなのはうらやましいことこの上なし。



追記、

上記の作文を書き終えてからパンフレットを広げたら、熊本さんの文章が掲載されて
いて、「小劇場の中心にボクシングのリングのような、相撲の土俵のような舞台を仕
組み、観客は四方から観るという形にした」とありました。先に読んどけっちゅうハ
ナシや。
posted by yu-gekitai at 10:13| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月11日

10日(劇団往来を観た。)

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『わさんぼん』という表題で、漢字で〈話三本〉と、フリガナならぬフリ漢字をふっ
てある。和モノ3本立ての公演である。舞台美術は能舞台を模してはいるが、柔らか
なタッチで、一ノ松、二ノ松などは、まるで、ぬいぐるみのようでカワイイ。暖かく
緩やかな演技空間となっている。

一人語り『要冷蔵の「愚行を繰り返す男」』作+演出+出演・要冷蔵。浴衣姿にカン
カン帽をかぶった要さんが、縁台に腰をかけて、自らの失敗談を漫談風に。要さん、
R1に出場するおつもりですか。

狂言『食道楽』作・北大路魯山人、演出・要冷蔵。美食家・陶芸家をはじめさまざま
な顔をもつ作者らしい「食べる」ということについての一考察が、台本となってい
る。わかりやすくて楽しいけれども、内容のその先の予想がつく。俳優のみなさん
が、狂言に挑戦している、という姿が、失礼な言いように聞こえるかもしれないけれ
ど、微笑ましかった。その経験は現代劇を演じるにあたっての糧ともなるだろう。

そして3本目が『しんしゃく源氏物語(末摘花の巻)』作・榊原政常、演出・神澤和
明。高校演劇のために書かれた台本だけれども、一般的にも(私の印象では)よく上
演されている戯曲だ。高校演劇にも芸術至上主義の上演にも耐えられるリーズナブル
な戯曲だろう。神澤さんの演出は、主人公の純情を、そのコメディ・タッチで描かれ
た世界観を活かし、仕掛けや小技で観客を楽しませながら、愛情をもって創りあげて
いる。

「末摘花」にしても、その時代の風俗には強いこだわりが無いようで、衣装も時代を
感じさせない。それには理由があるのだろうけれども、その自由さがこの公演全体に
あふれていて、空間そのままに暖かい。観客をこれでもかと楽しませてくれる。

男性ばかりで演じられる狂言と、戦後間もない昭和25年に発表された女生徒だけで演
じられた「末摘花」。はからずも劇団未来さんと同様、男性ばかり女性ばかりの2
チームの上演となった。
posted by yu-gekitai at 08:45| 京都 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月03日

2日(またしても劇団未来を観た。)

winmail.dat
『わが友ヒットラー』作・三島由紀夫、演出・しまよしみち、未来ワークスタジオに
て。

劇団未来さんの今回の公演は、先週26日に観せていただいた『サド侯爵夫人』との、
三島由紀夫戯曲の2本立てだ。週末金土日2週にわたって、作品を入れ替えながらの毎
日3ステージというのは、その大変さがしのばれる。それにしても、合わせて18ス
テージ。自ら運営する稽古場兼上演スペースを維持し続けているがゆえであり、ご苦
労もあるだろうが、うらやましくもある。

『サド侯爵夫人』と、同じ舞台美術だ。抽象的な空間に、例の、リアルそのものを主
張するテーブルも位置を違えてセットされてある。違和感はない。それは、同様のリ
アルさを保証する椅子が三脚しつらえられてあるからだ。調和している、ということ
だ。『サド侯爵夫人』での残念さは、同じく三脚(もう覚えていないので、四脚あっ
たかもしれないが)あった〈椅子〉が、舞台と同様の色彩である白い〈立方体〉で
あったことだろう。調和を欠いていた。さらに衣装も白であったことから、リアルな
テーブルの存在の無念さが際立ってしまったのだと思う。ちなみに『わが友ヒット
ラー』の衣装は、道具と同じリアルなものであった。

大広間とバルコニーの距離感に違和感を覚えたものの、舞台美術が活きていた。特に
第3幕の、(長いナイフの夜)を成し遂げたヒットラー(しまよしみちさん)の、嘆
きと達成感の入り混じった狂気と呼応していた。そう考えると、この公演の舞台美術
は『わが友ヒットラー』の第3幕にふさわしいものだったということになる。

台詞をしっかりと観客席に伝えるという宿命を帯びた戯曲であると思う。それが主眼
が置かれた演出であり、4人の登場人物の関係性が見事に舞台上に描かれていた。BGM
や音響の使用法など、私には気にならないこともなかったが、それは好みの問題であ
ろう。
posted by yu-gekitai at 08:19| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする