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『夜明け間際にフルコース』作・竹内介、演出・北川隆一、ABCホールにて。
いわゆるファンタジーである。現在のこの世の中で、生きるためにファンタジーを必
要としている人々がいるだろう。必要としているどころか、その世界の住人となって
しまっているひとも、きっと多いに違いない、と思う。この芝居はそういった人たち
に向けての演劇だろうか。
大阪劇団協議会フェスティバル参加作品では、人形劇団クラルテさんの公演はまさし
くファンタジーだった。だが、なにかが違う。人形と生身の俳優の演じる舞台の違
い。いや、そうではない。では、宮沢賢治の原作、東口次登さん脚色による『銀河鉄
道の夜』と、なにが異なるのだろう。
まず、竹内介さんの戯曲の手触りというか感触が、劇団五期会さんが上演した『流れ
星』に似ている。『流れ星』も『夜明け間際にフルコース』も、魔女や死神が登場し
て、現実ではありえない(都合の良い)登場人物の関係性やモノガタリの展開でス
トーリーが進行し、優しさや切なさに満ちた幕切れで涙を誘おうとする。昨日観せて
いただいた劇団きづがわさんの『パートタイマー・秋子』では、今そこで生きて息づ
いているかもしれないニンゲンのたくましさが、鮮やかな幕切れとなった。そこには
リアリティーというべきものを感じることができた。
ファンタジーという括りでいえば、ルンチェルンバシアターさんで観せていただいた
『星の王子さま』を引き合いに出してみてもよい(コチラも東口次登さんの脚色
だ)。『銀河鉄道の夜』も『星の王子さま』も、幕切れは厳しい。原作の良さと作劇
の素晴らしさと相まって、世界とはかくなるものかなと自覚させられる。ちょっと哲
学的であったりする。それはカンケイないか。
ややこしい物言いとなっているが、私は演出をさせていただく立場のニンゲンとして
解答(らしきものであっても)を見つけておきたいと考える。ファンタジーの対義語
はリアリティである。もう答えは出ているのも同じである。
リアルとリアリズムとリアリティー。演出をさせていただく立場のニンゲンとして、
その3つの単語を自分流にひも解いてみる。リアルとは、リアルである、とトボけて
みせているのではない。リアルとは演劇を離れての現実そのものであって、演劇とい
う表現の規範となるものだ。手前勝手な解釈で申し訳ないけれど。リアリズムとは本
物らしさ、リアルをなぞること。だから日本人には海外演劇をリアリズムを通して演
じることはできない。ギリシア劇やシェイクスピアやチェーホフもモチロンのこと
「リアリズムでは演じられない」。理由は「日本人であるから」だ。同じように、た
とえ日本を舞台にした台本であっても、いわゆる時代劇や近代劇はリアリズムでは演
じられないのも自明の通り。それは「その時代を生きていない」からである。昨日の
ブログで、劇団未来さんの三島由紀夫作品を同列に扱わなかったのもそれが理由とな
る。そもそも舞台の板の上にはリアリズムなんぞははじめっから存在しない。俳優が
自身の役柄を演じるときの、ニンゲンとしての、行動原理に基づいた演技、それがリ
アリズムであろう。いかにも造りものの舞台上を、リアリズムをまとった身体が浮遊
するのである。そうして、どうなるか、リアリティが立ち上がるるのだ。まがいもの
にすぎなかった舞台上は、真実その世界となる。『銀河鉄道の夜』や『星の王子様』
のようにたとえ宇宙空間が舞台であっても、たとえ人形が演じようが、リアリティの
ある舞台その世界へ変容する。つまるところ、リアリズムの演技に耐えうる戯曲であ
るという前提があり、そこに重大な責任がある。
『夜明け間際のフルコース』や『流れ星』には、リアリティが欠落しているように私
には思える。ファンタジーの対義語がリアリティであっても、ファンタジーこそ、そ
の作品世界に強度をもたらすべきリアリティが必要不可欠なのだと思う。魔女が登場
したからでも輪廻屋と自称する死神が登場したからでもない。ドラマの創作とその製
作現場での構築の過程そのものにリアリティを求めなくてはならない。それは劇作家
の責任でもあり演出者の責任でもあろう。
ラストの、シャフのレシピ・ノートを登場させるシーンのその絵が抜きんでて美し
かった。転換作業とみなすこともできるだろうが、そこには舞台におけるリアリティ
を、私は感じることができた。あと、店主の妻(藤田千代美さん)が、とてつもなく
カワイカッタ。このことはリアルなことであるのか、リアリズムによるものなのかの
判断は、くだしようがない。
2024年11月26日
23日(劇団きづがわを観た。)
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『パートタイマー・秋子』作・永井愛、演出・林田時夫、大正コミュニティーセン
ターにて。
あくまで個人的な感想ですが、ひと昔の新劇、あるいは商業演劇を見ているようだっ
た。これは褒めコトバでもある。3時間近い長丁場を、飽きることなく安心して楽し
めて、時間の長さは気にならなかった。俳優のみなさんの演技もアンサンブルもそつ
なく、経験の豊かさが感じ取れた。演出の林田さんの、作品への愛情の深さが舞台か
らビシバシと伝わってきた。主人公の秋子を演じられた林田彩さんの個性が活かさ
れ、役柄としても適役で、世間離れした秋子の人物像にも納得させられた。二兎社で
の秋子の沢口靖子さんの幻を追いかけながら、なるほど沢口靖子さんのパブリック・
イメージともピッタリの役柄だなあ、などとも思った。
ここまでの私の作文をお読みいただいて、なんだか褒めているといいながら、煮え切
らない書きようだなあと感じられたと思う。『パートタイマー・秋子』は、今年7
月、二兎社さんが初演をした作品なのである。二兎社さんのオリジナル作品を上演す
る意味。考えうるに、東京でしか観ることのできなかった作品を、大阪で舞台に立ち
上げたものとして紹介する、ということになるだろうか。
同じ大阪劇団協議会フェスティバル参加公演でいえば、劇団五期会さんの『流れ
星』、劇団大阪さんの『親の顔が見たい』、来年1月に公演を控える大阪放送劇団さ
んの『こんにちは、母さん』(これまた永井愛さんの作)が、オリジナルではない借
り物の作品である。劇団未来さんの三島由紀夫作品はすでに、日本の古典・近代劇を
探る、という意義が深いと考えるので、私としては除外すべきだと考えている。
さて、表現とは、あるいは演劇の研究とは、芸術における運動とはなんなのだろう、
と考え込んでしまうと、答えは安易には出せない。けれど、現代においてギリシア劇
やシェイクスピア戯曲を上演するのと同じように、今、その戯曲を上演する意味を考
え抜き、そこから導かれる新たな視点を発見し、新奇であろうが珍奇であろうが新た
な表現法に挑戦する、いうなれば、演出的なクリエイション、あるいは、冒険がなけ
れば、もったいない、と思う。もちろん劇団の立ち位置、運営における妥協などさま
ざまな妨げになることがあるだろう。
ここ10年はあまり現代演劇の公演会場に足を運ぶことがなかった私は、最近ひんぱん
に観客席のひととなるうちに、こんなコトバが頭の中で誕生した。「カラオケ演
劇」。だけど、カラオケで聴いて感動する歌声もある。魅力的な人のたたずまいもあ
る。「カラオケ演劇」を、否定的な意味だけで使うのではない。しかし、今できるこ
との範囲内で、今まで通りにやり続けることの終着の浜辺には、死した貝殻すらもた
どり着かないだろう。これは、自戒を込めての、私自身へのコトバでもある。
『パートタイマー・秋子』作・永井愛、演出・林田時夫、大正コミュニティーセン
ターにて。
あくまで個人的な感想ですが、ひと昔の新劇、あるいは商業演劇を見ているようだっ
た。これは褒めコトバでもある。3時間近い長丁場を、飽きることなく安心して楽し
めて、時間の長さは気にならなかった。俳優のみなさんの演技もアンサンブルもそつ
なく、経験の豊かさが感じ取れた。演出の林田さんの、作品への愛情の深さが舞台か
らビシバシと伝わってきた。主人公の秋子を演じられた林田彩さんの個性が活かさ
れ、役柄としても適役で、世間離れした秋子の人物像にも納得させられた。二兎社で
の秋子の沢口靖子さんの幻を追いかけながら、なるほど沢口靖子さんのパブリック・
イメージともピッタリの役柄だなあ、などとも思った。
ここまでの私の作文をお読みいただいて、なんだか褒めているといいながら、煮え切
らない書きようだなあと感じられたと思う。『パートタイマー・秋子』は、今年7
月、二兎社さんが初演をした作品なのである。二兎社さんのオリジナル作品を上演す
る意味。考えうるに、東京でしか観ることのできなかった作品を、大阪で舞台に立ち
上げたものとして紹介する、ということになるだろうか。
同じ大阪劇団協議会フェスティバル参加公演でいえば、劇団五期会さんの『流れ
星』、劇団大阪さんの『親の顔が見たい』、来年1月に公演を控える大阪放送劇団さ
んの『こんにちは、母さん』(これまた永井愛さんの作)が、オリジナルではない借
り物の作品である。劇団未来さんの三島由紀夫作品はすでに、日本の古典・近代劇を
探る、という意義が深いと考えるので、私としては除外すべきだと考えている。
さて、表現とは、あるいは演劇の研究とは、芸術における運動とはなんなのだろう、
と考え込んでしまうと、答えは安易には出せない。けれど、現代においてギリシア劇
やシェイクスピア戯曲を上演するのと同じように、今、その戯曲を上演する意味を考
え抜き、そこから導かれる新たな視点を発見し、新奇であろうが珍奇であろうが新た
な表現法に挑戦する、いうなれば、演出的なクリエイション、あるいは、冒険がなけ
れば、もったいない、と思う。もちろん劇団の立ち位置、運営における妥協などさま
ざまな妨げになることがあるだろう。
ここ10年はあまり現代演劇の公演会場に足を運ぶことがなかった私は、最近ひんぱん
に観客席のひととなるうちに、こんなコトバが頭の中で誕生した。「カラオケ演
劇」。だけど、カラオケで聴いて感動する歌声もある。魅力的な人のたたずまいもあ
る。「カラオケ演劇」を、否定的な意味だけで使うのではない。しかし、今できるこ
との範囲内で、今まで通りにやり続けることの終着の浜辺には、死した貝殻すらもた
どり着かないだろう。これは、自戒を込めての、私自身へのコトバでもある。