2024年12月20日

18日(遊劇体ミーティング。)

それぞれの今後のこと。劇団としてのこれからのこと。そして、ちっちゃな忘年会。

私は、3月30日に、台本と演出を担当する公演があります。
posted by yu-gekitai at 15:33| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月08日

7日(熊取ゆうゆう大学発表公演。)

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本年度の熊取ゆうゆう大学俳優講座の最終日。無事に発表を終えた。同じ台本を2グ
ループに分けての発表となった。本年度からは中学生以上も対象にした(昨年までは
18歳以上としていた)。そして参加してくれた中学生2人が、まじめでがんばりやさ
んだったので、楽しく素晴らしいできばえになった。台詞も完璧にはいっていた。ご
家族もとても喜ばれていて、私もすごくうれしかった。

台本は私の書下ろし短編『キテーネちゃん』。

かむかむプラザ(熊取町公民館)前の芝生スペースが舞台で、道をはさんでキテーネ
ホール(熊取町文化ホール)に向かっての上演。初の野外劇!だった。

来年もやれるかどうか、私の気持ちが自分でもわからない。前向きなのか後ろ向きな
のかも。仮にやらせていただくとしても、どういう講座内容になるのか。私のアタマ
のなかは白紙である。

またそれとは別のハナシになるが、30年以上続けたタレント俳優養成所講師も、今年
で終わりにしようと考えている。さらに25年続けた大学講師も(熊取ゆうゆう大学で
はない)、本年度で終えることになっている、自分的には。特別な理由はないけれ
ど、カラダとココロがしんどいのです。きっと年齢のせいです。
posted by yu-gekitai at 11:35| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月07日

6日(劇団コーロを観た。)

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『眠っているウサギ』作・くるみざわしん、演出・高橋正徳、フェニーチェ堺小ホー
ルにて。

演劇という表現ジャンルの持つ自由さ豊かさを、あらためて再認識させられる完成度
の高い舞台であった、なんてことをいうより、共感できる舞台であったといった方
が、わかっていただきやすいだろうか。

演出の、狙いの確かさとその力量に驚いた。それを象徴するのはバス停留所の標識
だ。なるほど冒頭のシーンは道筋のバス停留所だ。そのバス停留所の標識が、次の場
面の室内のシーンになっても、場所は変えてだが、舞台上にちゃあんとあるのだ。場
面転換の多い芝居である。シーンが変わってもバス停は舞台上にあるのだ。最後まで
すっとある。バス停のシーンは冒頭だけである。実はバス停だけではない。シーンの
象徴となる置き道具のいろいろが、ずっと舞台上に置きっぱなしだ。殺人現場に供え
られた花束も、そのままラストまで象徴的に、サスペンション・ライトで照らされた
ままになる。暗転中もだ。

演出の高橋正徳さんは、演劇を「信用している」。俳優を、台詞を、空間を「信頼し
ている」。信頼できる台詞と俳優の身体さえあれば、舞台上に劇世界のリアリティが
生まれるのだ。シンプルである。俳優に無用なことはさせていないから、空間が研ぎ
澄まされている。

それは当然、くるみざわしんさんの台詞にもいえる。情報量が少ないような錯覚を与
えられるが、無駄なものをそぎ落とし結晶のように強度の強い台詞になっている。

私はこの芝居を観せていただいて、なかなか最近では耳にすることもない、実際そう
いった芝居を観る機会さえない、ふたつのコトバを思い出した。〈アジプロ演劇〉と
〈ディスカッション・ドラマ〉だ。『眠っているウサギ』は、アジプロ演劇としての
特質を備えているように思う。台詞のやり取りは議論討論そのもののように感じた。
問題提起や課題形成、調査分析に有効な複数の視点が提示されたということで、「探
求行為」であったと考えれば、ディベート演劇と例えるべきかもしれない。ただ、終
盤には、着地点が観客にも予想がつき始めるのは、弱点だろうか、それとも観客の対
象が中高校生ということで、それでよかったのか、部外者の私には口をはさむ余地は
ない。

俳優につて特筆したいのは、全員の台詞が、ひとつ残らずクリアに空間に響き渡った
ことである。聞こえた、ではなく、クリアに聴きとれた。これは当たり前のことのよ
うではあるが、素晴らしいこと。演技において特に好印象を残したのは、ホームレス
の大石さんを演じた恒川勝也さん、元教師の水本さんを演じた越賀はなこさん、そし
て牧野さん役の、中田達幸!

場面転換の多さを省エネで可能にした舞台美術も、選曲も含めて貢献度が高かった音
響デザインも、シンプルなようでいて実は多彩なことをしていたであろうメリハリの
ある照明も、みな素晴らしかったと付け加えておきたい。

posted by yu-gekitai at 17:41| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月04日

3日(『ウッドストック/愛と平和と音楽の3日間 ディレクターズカット版』を観た。)

オリジナルは1970年、監督・マイケル・ウォドレー、編集・マーティン・スコセッ
シ、アメリカ映画、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受けている。

今日観たものは、1994年に製作された〈ディレクターズカット版〉。実に3時間44分
の長尺である。調べて見たら、オリジナル版は3時間04分であった。40分も長くなっ
た。ジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリクスの
映像が追加されたらしい。たぶん観るのは3回目。初めて観たのはオリジナル版、そ
してディレクターズカット版を観るのは2回目、だと思う。

今回いちばんカッチョよかったと感じたのは、サンタナからスライ&ザ・ファミ
リー・ストーンの流れ。オリジナル版にあるやつだけど。〈なめくじ酒場〉にて。
posted by yu-gekitai at 10:00| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月02日

1日(関西芸術座を観た。)

winmail.dat
『ムッシュー・フューグあるいは陸酔い』作・リリアーヌ・アトラン、訳・小島達雄
+波多野茂弥、演出・亀井賢二、ABCホールにて。

すごい戯曲があったもんだ。一読後、ため息をつきながら思った。上演を拒否しては
いないが、上演にはなかなか辿りつけない、これはレーゼドラマというやつだ。さら
に、誤解を恐れずいってしまえば、風の旅団など曲馬舘系列のアングラ演劇だ。京大
西部講堂前広場で上演するのにピッタリな作品じゃないか。鉄条網がテントがわり
で、舞台にモノホンの大型トラックを突っ込んで、地面に穴を掘って、本火をガンガ
ン燃やして、歌もうたうし、って、そんな戯曲。

絶滅させられたユダヤ人ゲットー地区で、地下水道に隠れ最後の生き残りとなった4
人の子供が、ドイツ兵に捕らえられ、トラックに乗せられ死体焼却所に運ばれる、と
いうストーリーであるが、2時間の上演時間のそのすべてが、ただごとでは済まされ
ない。街は破壊されすべてのものみなが殺戮され、眠る場所も食いものもなく、ナチ
スから隠れて地下水道で陰湿なケモノ同然で暮らしていた4人の子供たちが、それま
で殺す側であったナチの軍曹ムッシュー・フューグ(蒸発男)と名乗る狂人、といっ
たらよいのか、同僚から蔑まれ凄絶なイジメをうけている男と、自らを焼却する「死
の谷ブール・プーリ」に向かう道行を同じゅうすることで、ニンゲンとしての尊厳を
取り戻し人生を全うするというドラマ。

そもそも状況自体がリアリズムでは太刀打ちできない。トラック上の5人もリアリズ
ムとは程遠い存在だ。与えられた台詞も、リアリズムでは到底演じきれない。そもそ
も舞台上のトラックも全然リアルじゃない。舞台上の、その世界のリアリティを獲得
するためには、今まで手にしていた演技術では突破できないだろう。しかも、その5
人は、絶え間なく劇中劇(まだ知らぬ未来の自分たちという妄想劇)を演じるのだ。
結婚式を挙げ、海を見、約束の地へと旅し、老人となり、オペラ劇場へ行き、病気に
なり、人生を悔やみ、死に、至るのである(実際には一人は途上で射殺される)。
フューグもまた、片足をピストルで打ち抜かれている状態だ。5人は極限状況でのリ
アリズムを身体に抱えながら、劇中劇という二重構造の、もう一つのリアリズムに身
をゆだねなければならない。

この作品を立ち上げるためには俳優は、地の底から魂を呼び戻すくらいな途方もない
エネルギーが必要だ。表現力においても。そのためには、なにか〈手段〉あるいは
〈仕掛け〉という大ナタを振るう演出の、野蛮なほどの腕力が必要だったように思
う。

私は、戯曲を熟読してからの観劇であったから、ドラマの流れはわかっている。2時
間の上演時間があっという間で、終演後本当に2時間が経過したのかと疑ったほどで
ある(1時間とちょっとくらい、は盛り過ぎとしても、1時間半くらいじゃないのかと
感じた)。非常にオモシロかったし楽しんだ。ドラマにのめり込んでいた。しかし、
予備知識のない観客にとって、上手奥30度に運転席を向けて置かれたトラックの上
で、何が語られ行われていたのかが、理解できたのだろうか。ドラマ中での、リアル
から妄想に転じたとき戻るときそれぞれに、観客にそれとなく察知させ得る〈仕掛
け〉も欲しかった。

俳優のみなさん、特にトラック上の5人は称賛されてよい。しかし、私には真っすぐ
に演じすぎていると感じた。極限にある狂気と暴力の世界の登場人物を演じるにあ
たって、俳優として磨き上げたであろうキレイな声や口跡のままでは、二つのリアリ
ズムの距離感を往還できないのではないだろうか。それは陸酔い(!)をしているで
あろう、トラックの運転席側のニンゲンにもいえるかもしれない。でなきゃあそこで
ハーモニカは吹けないような気がする。

この戯曲との出会いを与えていただき、また今回の公演に立ち会わさせていただくこ
とができて、感謝の気持ちでいっぱいです。関西芸術座さんには、もっともっとこの
ような、今、この世界に向けて広く上演すべき戯曲を、発掘、紹介していただきたい
と願う次第です(なに偉そうにゆうてんねや、とだれかツッコミをいれてやってくだ
さい)。
posted by yu-gekitai at 17:00| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする