2006年05月06日

6日(母の推理。)

 あの犯人の女は、義理の息子と出来ていて、ふたりの乳児の死体は義理の息子とのあいだに出来たもの。ところが義理の息子は、自分の娘と恋仲になった。現在世間をさわがせている、例の気色悪い事件についての、わが母の推理である。じゃあ長男らしき死体はなぜ、と突っ込みたくもなるが、まあ、だれもがあの事件については、想像したくなる。
 その推理、というか推論は正解してようが、的外れであろうが、別にだれにも迷惑をかけないだろうし、だれからもとがめられようはずも無い。
 私たちは、時に推論の俎上にあがることがある。それは私たちの仕事が(表現が)、たとえマイナーなものであろうと、世間に対してなされていることの証明であろうし、社会からとりあえずは認知されているのだということにもなるだろう。だから、邪推されてしまうということは、それだけでなんらかの非があったのだと、私は考える。もちろんなんのよこしまな意図も無く、公明正大であったとしても、邪推の対象にされてしまうことがあろうし、何事においてもなんらかの不満の声が、かならずどこかからあがるものだ。だからこそ、責任のある立場の者は慎重であらねばならないし、説明しなければならない責任がある。
 色眼鏡で見る、というコトバがある。色眼鏡で見ることの自由は存在してもよいし、そのことが私たちの日常の、コミュニケイションの素材になったりする。それぞれの思想が、かける眼鏡の色でなんとなく主張しあう。生活のいろどりにもなったりする。ああ、あのヒトはこんなヒトだから、みたいな。決して品の良いことではないかもしれないけど。
 また、色眼鏡で見られることに慣れっこになるのも、自由だといえる。だけど、それは気持ちのよいことではないはずだ。パブリックな事業ほど、市民に向けてだとか、その大義名分が開かれている側のヒトたちの、その大多数に、公正だと納得させられなければならない。その必要がある。
 また、こういうのもありだ。明確な党派性を打ち出す。ある思想なり、主義なりで色づけてしまうのだ。これならば、ある偏向がなければ不自然だ。偏っていて良いのだ。堂々と、思いっきり偏っていれば良いのだ。開き直って良いのだ。そこに生じるであろう衝突や軋轢はさておき。まあ、共存もありえるし。
 なんとか色眼鏡をお互いはずして、素通しの、風通しの良い環境にするべきじゃないかと思うのだ。環境の良い、とは決して稽古場や劇場や助成金に恵まれている、ということだけではないはず。
 私は、みんなが仲良しになれば良いと思っているわけでは、決してない。仲良しになる必要すら、実は無いのだ、と思っている。ニンゲンである。好き嫌いがあって当たりまえ。見方考え方の違いがあって当たりまえ。アナタは、ワタシは、どんなヒトか、ナニを、ドウ考えているのか、はっきりさせといても良いのじゃないか、と思うのだ。要は、旗色を鮮明にしろ、鮮明じゃなかったら玉虫でも良い。ハナシが必要な時はハナシがしやすいカンケイがあればよい。そのために、京都なり大阪なりナンタラ協会があるのじゃないのか。そんなことを、母の推理をきっかけにして、考えてみた。ってウソがバレバレですか。
posted by yu-gekitai at 17:53| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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