2021年09月29日

28日(『深沙大王』パンフレットに書いた文章。)

 いつもですよ。いつもいつも思っていたんです。公演が終了したらこのブログにパ
ンフレットに書いた文章を掲載しようと思っているのに、いつもいつも忘れてしまう
のですよ。今回は忘れませんでした。

 以下に再掲載いたします。





 『いろいろと悔しい(演出者より)』

喪に服すというコトバは、近親者の死について一定期間わが身を慎んで生活すること
だけれども、私たちは今や世界中で喪に服しているという状態に相違ない。いろいろ
な死があるのだろうが、なんせコロナ禍によるそれが、戦争とならんで、いちばん理
不尽な死だろう。

だれか今すぐこの状況を何とかしてくれ。

政治の世界には、残念なことだが、そんなことのできるひとはこの世にはいないのだ
とはっきり知れた。手に負えないとはこのことだ。政治家の顔をテレヴィで見てもむ
なしい気持ちになるだけ。

では宗教で救われるのか。私には、信心はひとりひとりの心の中にしかないのだとし
か思うことができない。宗教に手を染めると、どうしようもなく金が介在してくると
いうのが怪しい。金儲けと結びついているようにしか見えないのは私の蒙昧さゆえだ
ろうか。

鏡花さんは徹底して、金を信奉し権力を振りかざす俗物を糾弾する。幻想性ばかりが
俎上にあげられ、それについてはあまり語られていないように思うが、ドラマツル
ギーの所在はそこにある。というとテレヴィ・ドラマの「水戸黄門」や「遠山の金さ
ん」になってしまうが、あながち的外れではないだろうと思うのだ。

だれしもが多かれ少なかれ、俗物と化すであろう欲望の種を体内に抱えている。大い
に開花させておられる方もいるだろう。『深沙大王』は俗物であることを戒める芝居
であり、他者を思いやることで、この世界が浄化されるという芝居である。そして、
今の時代に、励ましと勇気を与えてくれる芝居であると信じる。それは、大げさでな
く、政治でも宗教でもない、芸術・芸能のもつ力だ。それの、この世界での存在理由
だ。コロナにやられてたまるか。

いつものとおり、舞台上にはリアルな説明的美術は一切なく、象徴的抽象的なものが
少しあるだけ。お客さまのイマジネーションの助けをお借りしての上演だ。3幕6場の
構成を、前編と後編に分けて2幕ものにした。台詞の改変は皆無。明治37年に発表さ
れたそのまんまである。オリジナルのままの上演では、発表後117年を経て、今回が
初演となる可能性が高い。ちなみに劇中、深沙大王自身は登場しない。

これを書いている今朝、子どものころから馴染みの、斜め向かいの家の先輩の葬儀が
あった。亡くなられたことも親族だけで葬儀を済ませたことも、まだわれわれ近所の
ものには、正式には知らせを受けていない。この時期に公演を打つということは、世
界中に向けて喪に服す上演であらねばと心している。              
 
posted by yu-gekitai at 07:18| 京都 | Comment(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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