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『流れ星』作・宅間孝行、演出・井之上淳、ABCホールにて。
五期会の若手中堅俳優さんたちの、進境の著しさを感じさせる楽しい舞台だった。演
出の手つきは細やかで丁寧で、舞台への愛情を感じた。舞台というよりは俳優たちへ
の、かもしれない。
昨日観た清流劇場さん同様、この舞台からも、吉本新喜劇の匂いを感じたのだが、そ
れは戯曲に対してのものだ。現代劇を装いながら、魔女が出てきて魔法を使い、タイ
ムマシンで過去へ戻り、という安易なありふれたファンタジーである。そういうモノ
ガタリの荒唐無稽さが私に、吉本新喜劇を思い起こさせたのかなと思う(吉本新喜劇
さんゴメン)。あり得ないシチュエイションにおけるドタバタゆえに、俳優たちが
光って見えたのかもしれない。しかし、キャラクターを演じるという観点においては
輝いていても、それがニンゲンを演じるという俳優の本質的な表現領域にあるのかど
うかはギモンである。
私は、この戯曲を、構成の巧みさという点で否定はしないが、容認することもできな
い。そもそもが五期会さんのホンではない。借りものである。ではなぜこの戯曲が選
ばれたのかは私には想像するしかない。例えばモーツァルトやベートーヴェンなら
ば、その残された楽曲は現代においてもなお、繰り返し演奏される。大衆から愛され
る歌謡曲やポップスは、あまたカヴァーされ、カラオケで熱唱される。舞台表現者も
モーツァルトやベートーヴェンやヒット曲歌手にならなければならないなどとはいわ
ないけれども、そこには公演の眼目となるクリエイションがあってしかるべきだ。戯
曲の創作と同じように、借りもので上演する場合、そこに演出的な創造があるのかど
うかが問われるのではないか。これは私の偏狭な考えだろうか。
実は私も、この戯曲を、ってこれですよ『流れ星』を、演出(!)したことがあるの
です。某高校の文化祭での発表のです。生徒たち自らの演出でしたが、私が指導を担
当しました。ですから正式には演出者としてのクレジットはありません。観劇中もそ
の後も、その時の稽古の現場風景が甦ってきました。あれはたしか地理教室が稽古場
だったかな。生徒みな生き生きと楽しく、かつ厳しく稽古を積んで、みるみる上達し
ました。演出的なクリエイションアはなかったです。どの口がゆうてんねん、って感
じですね。そういう意味では、良い戯曲なのです。
2024年10月07日
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