winmail.dat
『サド侯爵夫人』作・三島由紀夫、演出・松永泰明、未来ワークスタジオにて。
客席に着き、まず、舞台美術の、抽象的な美しさにときめいた。が、である、純白で
統一されてあるのに、しつらえてあるテーブルが焦げ茶色のリアルなもので、卓上の
食器もまたである。空間と舞台上の置き道具に違和感があることに気づく。なにか仕
掛けがあるのかと疑っていたら、確かにあった。だがそれに失望させられてしまっ
た。
俳優のみなさんの奮闘は称えるべきなのかもしれない。が、その奮闘は不要だったと
しか私には思えない。戯曲通り女性6人で演じられるのだが、台詞に語られている人
物が実際に舞台に登場し、それを台詞にあわせてマイムで演じる。だから本来の登場
人物ではないサド侯爵も、3人の娼婦も、黒ミサの司祭らしき人物も登場する。戯曲
の上ではラストシーンの一歩手前で寸止めを食らい、結局のところ登場が許されない
サド侯爵の登場頻度も高い。俳優は自身の配役以外にそれらの役も演じることとな
る。
演出の松永さんは、台詞のチカラを信用できないタイプであるらしい。どんどん舞台
上に説明あるいは解説を加算してゆく。雰囲気づくりを狙ったと思われる照明効果や
BGMの多用も、いうならば説明にすぎない。違和感のあるテーブルは第2幕で、黒ミサ
の儀式の視覚的説明に利用された。ただし、第2幕のラストのルネの台詞、「アル
フォンスは、私だったのです」は、ルネが視覚的にもサド侯爵と一体となったこと
で、秀逸な絵となって、ドキリとさせられた瞬間だった。
ラストには禁を破って(何度目かの)サド侯爵の登場となるわけだけれども、舞台上
でシャルロット役の俳優さんが、帽子やマントのような扮装を解いたらサド侯爵で
あった、ということになるのは、観客を混乱させ、大きな誤解を招くことになると思
う。
私は俳優たちの身体から溢れ出る台詞を全身全霊で受けとめたかった。好みが合わな
かったということだろう。
2024年10月29日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック