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『ムッシュー・フューグあるいは陸酔い』作・リリアーヌ・アトラン、訳・小島達雄
+波多野茂弥、演出・亀井賢二、ABCホールにて。
すごい戯曲があったもんだ。一読後、ため息をつきながら思った。上演を拒否しては
いないが、上演にはなかなか辿りつけない、これはレーゼドラマというやつだ。さら
に、誤解を恐れずいってしまえば、風の旅団など曲馬舘系列のアングラ演劇だ。京大
西部講堂前広場で上演するのにピッタリな作品じゃないか。鉄条網がテントがわり
で、舞台にモノホンの大型トラックを突っ込んで、地面に穴を掘って、本火をガンガ
ン燃やして、歌もうたうし、って、そんな戯曲。
絶滅させられたユダヤ人ゲットー地区で、地下水道に隠れ最後の生き残りとなった4
人の子供が、ドイツ兵に捕らえられ、トラックに乗せられ死体焼却所に運ばれる、と
いうストーリーであるが、2時間の上演時間のそのすべてが、ただごとでは済まされ
ない。街は破壊されすべてのものみなが殺戮され、眠る場所も食いものもなく、ナチ
スから隠れて地下水道で陰湿なケモノ同然で暮らしていた4人の子供たちが、それま
で殺す側であったナチの軍曹ムッシュー・フューグ(蒸発男)と名乗る狂人、といっ
たらよいのか、同僚から蔑まれ凄絶なイジメをうけている男と、自らを焼却する「死
の谷ブール・プーリ」に向かう道行を同じゅうすることで、ニンゲンとしての尊厳を
取り戻し人生を全うするというドラマ。
そもそも状況自体がリアリズムでは太刀打ちできない。トラック上の5人もリアリズ
ムとは程遠い存在だ。与えられた台詞も、リアリズムでは到底演じきれない。そもそ
も舞台上のトラックも全然リアルじゃない。舞台上の、その世界のリアリティを獲得
するためには、今まで手にしていた演技術では突破できないだろう。しかも、その5
人は、絶え間なく劇中劇(まだ知らぬ未来の自分たちという妄想劇)を演じるのだ。
結婚式を挙げ、海を見、約束の地へと旅し、老人となり、オペラ劇場へ行き、病気に
なり、人生を悔やみ、死に、至るのである(実際には一人は途上で射殺される)。
フューグもまた、片足をピストルで打ち抜かれている状態だ。5人は極限状況でのリ
アリズムを身体に抱えながら、劇中劇という二重構造の、もう一つのリアリズムに身
をゆだねなければならない。
この作品を立ち上げるためには俳優は、地の底から魂を呼び戻すくらいな途方もない
エネルギーが必要だ。表現力においても。そのためには、なにか〈手段〉あるいは
〈仕掛け〉という大ナタを振るう演出の、野蛮なほどの腕力が必要だったように思
う。
私は、戯曲を熟読してからの観劇であったから、ドラマの流れはわかっている。2時
間の上演時間があっという間で、終演後本当に2時間が経過したのかと疑ったほどで
ある(1時間とちょっとくらい、は盛り過ぎとしても、1時間半くらいじゃないのかと
感じた)。非常にオモシロかったし楽しんだ。ドラマにのめり込んでいた。しかし、
予備知識のない観客にとって、上手奥30度に運転席を向けて置かれたトラックの上
で、何が語られ行われていたのかが、理解できたのだろうか。ドラマ中での、リアル
から妄想に転じたとき戻るときそれぞれに、観客にそれとなく察知させ得る〈仕掛
け〉も欲しかった。
俳優のみなさん、特にトラック上の5人は称賛されてよい。しかし、私には真っすぐ
に演じすぎていると感じた。極限にある狂気と暴力の世界の登場人物を演じるにあ
たって、俳優として磨き上げたであろうキレイな声や口跡のままでは、二つのリアリ
ズムの距離感を往還できないのではないだろうか。それは陸酔い(!)をしているで
あろう、トラックの運転席側のニンゲンにもいえるかもしれない。でなきゃあそこで
ハーモニカは吹けないような気がする。
この戯曲との出会いを与えていただき、また今回の公演に立ち会わさせていただくこ
とができて、感謝の気持ちでいっぱいです。関西芸術座さんには、もっともっとこの
ような、今、この世界に向けて広く上演すべき戯曲を、発掘、紹介していただきたい
と願う次第です(なに偉そうにゆうてんねや、とだれかツッコミをいれてやってくだ
さい)。
2024年12月02日
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