2024年11月18日

17日(劇団大阪を観た。)

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『親の顔が見たい』作・畑澤聖悟、演出・熊本一、谷町劇場にて。

この戯曲は私にとってすごくキツイと感じるものだった。キツイというのは作品レ
ヴェルのことではなく、その内容であり、登場人物に共感できないことにある。立場
が逆転すれば共感、ということになるのかもしれないが。とはいえ戯曲に内在する力
は圧倒的だ。

四方客席で舞台を取り囲む。舞台でのやり取りを見守る私は、観客というより、会議
室に招かれなかった2年3組の、生徒の保護者のひとりであるという気分にさせられ
る。ひとり一人が舞台を取り囲み、いじめ生徒の親たちの卑劣さを批判する社会全体
となる。立場が反転することの恐怖を押し隠しながら。この舞台構造は劇団大阪さん
の、演出者である熊本さんの発案によるものだろうと推測する(戯曲本での、劇団昴
による初演とみられる舞台写真では異なる)。これだけでもうこの公演の演出的な成
果は約束されたといえる。

舞台上には事務机というには立派すぎる机が2卓。同じく異様に高級感のある椅子が
(たぶん)12脚。それは客席背後に掲げられた、イエスを抱きかかえた聖母マリアを
描いた絵画とともに、その中学校がどのような学校でどういう教育方針を示すのかを
端的に表している。

俳優に与えられた動線は、2卓の机を縫うカタチでの「日」の字と1箇所の登退場口の
みである。シンプルな動線での移動の繰り返しと、基本的にはそれぞれが与えられた
席に着いているというミザンスは、私としては、完璧だったといっても許されるだろ
う考える。緊張感で張り詰めた空間での演技も見どころが多く、みなさん素晴らし
かったが、翠の父(上田啓輔さん)、志乃の母(夏原幸子さん)、愛理の母(東久美
子さん)、学級担任(七星さん)が強く印象に残った。出演者のみなさんが、登場人
物それぞれのもつ背景を丁寧に演じられていた。そういうことが可能であるのは、つ
まるところ戯曲の良さということになるのだろう。

音響効果に関しては、不必要なものがなかったか、距離感が妥当であったか、など気
にならないではない。

劇団未来さんと劇団大阪さんは、自前の小劇場を運営されていて、コトバは古くてス
ミマセンが、自家薬籠中の空間をお持ちなのはうらやましいことこの上なし。



追記、

上記の作文を書き終えてからパンフレットを広げたら、熊本さんの文章が掲載されて
いて、「小劇場の中心にボクシングのリングのような、相撲の土俵のような舞台を仕
組み、観客は四方から観るという形にした」とありました。先に読んどけっちゅうハ
ナシや。
posted by yu-gekitai at 10:13| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月11日

10日(劇団往来を観た。)

winmail.dat
『わさんぼん』という表題で、漢字で〈話三本〉と、フリガナならぬフリ漢字をふっ
てある。和モノ3本立ての公演である。舞台美術は能舞台を模してはいるが、柔らか
なタッチで、一ノ松、二ノ松などは、まるで、ぬいぐるみのようでカワイイ。暖かく
緩やかな演技空間となっている。

一人語り『要冷蔵の「愚行を繰り返す男」』作+演出+出演・要冷蔵。浴衣姿にカン
カン帽をかぶった要さんが、縁台に腰をかけて、自らの失敗談を漫談風に。要さん、
R1に出場するおつもりですか。

狂言『食道楽』作・北大路魯山人、演出・要冷蔵。美食家・陶芸家をはじめさまざま
な顔をもつ作者らしい「食べる」ということについての一考察が、台本となってい
る。わかりやすくて楽しいけれども、内容のその先の予想がつく。俳優のみなさん
が、狂言に挑戦している、という姿が、失礼な言いように聞こえるかもしれないけれ
ど、微笑ましかった。その経験は現代劇を演じるにあたっての糧ともなるだろう。

そして3本目が『しんしゃく源氏物語(末摘花の巻)』作・榊原政常、演出・神澤和
明。高校演劇のために書かれた台本だけれども、一般的にも(私の印象では)よく上
演されている戯曲だ。高校演劇にも芸術至上主義の上演にも耐えられるリーズナブル
な戯曲だろう。神澤さんの演出は、主人公の純情を、そのコメディ・タッチで描かれ
た世界観を活かし、仕掛けや小技で観客を楽しませながら、愛情をもって創りあげて
いる。

「末摘花」にしても、その時代の風俗には強いこだわりが無いようで、衣装も時代を
感じさせない。それには理由があるのだろうけれども、その自由さがこの公演全体に
あふれていて、空間そのままに暖かい。観客をこれでもかと楽しませてくれる。

男性ばかりで演じられる狂言と、戦後間もない昭和25年に発表された女生徒だけで演
じられた「末摘花」。はからずも劇団未来さんと同様、男性ばかり女性ばかりの2
チームの上演となった。
posted by yu-gekitai at 08:45| 京都 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月03日

2日(またしても劇団未来を観た。)

winmail.dat
『わが友ヒットラー』作・三島由紀夫、演出・しまよしみち、未来ワークスタジオに
て。

劇団未来さんの今回の公演は、先週26日に観せていただいた『サド侯爵夫人』との、
三島由紀夫戯曲の2本立てだ。週末金土日2週にわたって、作品を入れ替えながらの毎
日3ステージというのは、その大変さがしのばれる。それにしても、合わせて18ス
テージ。自ら運営する稽古場兼上演スペースを維持し続けているがゆえであり、ご苦
労もあるだろうが、うらやましくもある。

『サド侯爵夫人』と、同じ舞台美術だ。抽象的な空間に、例の、リアルそのものを主
張するテーブルも位置を違えてセットされてある。違和感はない。それは、同様のリ
アルさを保証する椅子が三脚しつらえられてあるからだ。調和している、ということ
だ。『サド侯爵夫人』での残念さは、同じく三脚(もう覚えていないので、四脚あっ
たかもしれないが)あった〈椅子〉が、舞台と同様の色彩である白い〈立方体〉で
あったことだろう。調和を欠いていた。さらに衣装も白であったことから、リアルな
テーブルの存在の無念さが際立ってしまったのだと思う。ちなみに『わが友ヒット
ラー』の衣装は、道具と同じリアルなものであった。

大広間とバルコニーの距離感に違和感を覚えたものの、舞台美術が活きていた。特に
第3幕の、(長いナイフの夜)を成し遂げたヒットラー(しまよしみちさん)の、嘆
きと達成感の入り混じった狂気と呼応していた。そう考えると、この公演の舞台美術
は『わが友ヒットラー』の第3幕にふさわしいものだったということになる。

台詞をしっかりと観客席に伝えるという宿命を帯びた戯曲であると思う。それが主眼
が置かれた演出であり、4人の登場人物の関係性が見事に舞台上に描かれていた。BGM
や音響の使用法など、私には気にならないこともなかったが、それは好みの問題であ
ろう。
posted by yu-gekitai at 08:19| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月29日

27日(THE GO AND MO’Sを観た。)

『黒川寄席 DX Vol.3』脚本+出演・黒川猛、出演・福田恵+玉田玉山+大熊ねこ+
二口大学、東福寺のSPACE LFANにて。

黒川さんの落語台本を、4人の手練れが自由自在に演じる。パンダさんのアレは落語
か? ファンタスティック歌劇団の第2作といった感じでしたけれど。リラックスした
気分でとっても楽しめる怒涛の100分でした。パンダさんが、ものすごく美しく神々
しく見えたのはなにかの錯覚だろうか。あ、女神さまだっけ。
posted by yu-gekitai at 15:55| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

26日(劇団未来を観た。)

winmail.dat
『サド侯爵夫人』作・三島由紀夫、演出・松永泰明、未来ワークスタジオにて。

客席に着き、まず、舞台美術の、抽象的な美しさにときめいた。が、である、純白で
統一されてあるのに、しつらえてあるテーブルが焦げ茶色のリアルなもので、卓上の
食器もまたである。空間と舞台上の置き道具に違和感があることに気づく。なにか仕
掛けがあるのかと疑っていたら、確かにあった。だがそれに失望させられてしまっ
た。

俳優のみなさんの奮闘は称えるべきなのかもしれない。が、その奮闘は不要だったと
しか私には思えない。戯曲通り女性6人で演じられるのだが、台詞に語られている人
物が実際に舞台に登場し、それを台詞にあわせてマイムで演じる。だから本来の登場
人物ではないサド侯爵も、3人の娼婦も、黒ミサの司祭らしき人物も登場する。戯曲
の上ではラストシーンの一歩手前で寸止めを食らい、結局のところ登場が許されない
サド侯爵の登場頻度も高い。俳優は自身の配役以外にそれらの役も演じることとな
る。

演出の松永さんは、台詞のチカラを信用できないタイプであるらしい。どんどん舞台
上に説明あるいは解説を加算してゆく。雰囲気づくりを狙ったと思われる照明効果や
BGMの多用も、いうならば説明にすぎない。違和感のあるテーブルは第2幕で、黒ミサ
の儀式の視覚的説明に利用された。ただし、第2幕のラストのルネの台詞、「アル
フォンスは、私だったのです」は、ルネが視覚的にもサド侯爵と一体となったこと
で、秀逸な絵となって、ドキリとさせられた瞬間だった。

ラストには禁を破って(何度目かの)サド侯爵の登場となるわけだけれども、舞台上
でシャルロット役の俳優さんが、帽子やマントのような扮装を解いたらサド侯爵で
あった、ということになるのは、観客を混乱させ、大きな誤解を招くことになると思
う。

私は俳優たちの身体から溢れ出る台詞を全身全霊で受けとめたかった。好みが合わな
かったということだろう。
posted by yu-gekitai at 14:42| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月15日

13日(劇団ジャブジャブサーキットを観た。)

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『正劇オセロと貞奴』構成+演出・はせひろいち、〈劇中劇『正劇オセロ』原作・
シェイクスピア、翻案・江見水陰、潤色・はせひろいち〉、ウイングフィールドに
て。

案内状をいただいて、これはオモシロそうな公演だと察知して、なんとしても観た
い、と思いました。森田雅子先生の労作「貞奴物語 禁じられた演劇」(ナカニシヤ
出版)で予習をしてから、劇場へ。

簡単すぎる評伝的な流れと、劇中劇的な「正劇オセロ」の短縮版とを併せて65分くら
いの上演で、これは意外。2時間前後の上演時間になるのではないかと勝手に思い込
んでいました。評伝的な部分である、冒頭の、川上音二郎と貞との無謀な船旅が基調
を成しているようで、「オセロ」でも、雨音などの効果音が頻繁に鳴りつづけるのは
演出の戦略だと感じました。私にはその意図はわからないけれども、それが好ましく
思えた。また、ほとんどを、椅子に腰かけての演技であったのも、ウイングフィール
ドという空間での無駄な動きを封じる、というこれまた演出的戦略、と穿ち過ぎであ
ることを承知のうえで、いいきってしまいたい。理由はといえば、些細なことかもし
れないけれど、本作を擁護したくなるような、私にとって好ましい公演だった、とい
うことに尽きる。ただし不満も多々ある。ひとつだけ記せば、オセロと、デスデモー
ナをはじめとするヴェニス在の登場人物とのあいだにあるはずの、人種と宗教の問題
にまったく触れていないことだ(単にコトバではなく演技として)。でなきゃイアー
ゴーの立場がないではないか。『オセロ』という戯曲の肝はそこにあるはず、と私は
思うのだが。

森田雅子先生の本には『正劇オセロ』の当時のポスターやデスデモーナの寝室の場面
の舞台写真が掲載されていてありがたい。

余談ですが、ジョンズ・チルドレンという英国のバンドに「デスデモーナ」という、
ヒットとは縁のなかったシングル曲がある。ティラノザウルス・レックス(後のT・
レックス)結成以前のマーク・ボランがギタリストで、作詞作曲も彼だ。リード・
ヴォーカリストが居るので、マーク・ボランはバッキング・ヴォーカルにまわってい
て、独特のヴィブラートをきかせた声を響かせている。私の耳にはデスデモーナでは
なく、デッセモーナと聞こえる(耳が悪いんとちゃあいますか)。
posted by yu-gekitai at 10:44| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月07日

6日(劇団五期会を観た。)

winmail.dat
『流れ星』作・宅間孝行、演出・井之上淳、ABCホールにて。

五期会の若手中堅俳優さんたちの、進境の著しさを感じさせる楽しい舞台だった。演
出の手つきは細やかで丁寧で、舞台への愛情を感じた。舞台というよりは俳優たちへ
の、かもしれない。

昨日観た清流劇場さん同様、この舞台からも、吉本新喜劇の匂いを感じたのだが、そ
れは戯曲に対してのものだ。現代劇を装いながら、魔女が出てきて魔法を使い、タイ
ムマシンで過去へ戻り、という安易なありふれたファンタジーである。そういうモノ
ガタリの荒唐無稽さが私に、吉本新喜劇を思い起こさせたのかなと思う(吉本新喜劇
さんゴメン)。あり得ないシチュエイションにおけるドタバタゆえに、俳優たちが
光って見えたのかもしれない。しかし、キャラクターを演じるという観点においては
輝いていても、それがニンゲンを演じるという俳優の本質的な表現領域にあるのかど
うかはギモンである。

私は、この戯曲を、構成の巧みさという点で否定はしないが、容認することもできな
い。そもそもが五期会さんのホンではない。借りものである。ではなぜこの戯曲が選
ばれたのかは私には想像するしかない。例えばモーツァルトやベートーヴェンなら
ば、その残された楽曲は現代においてもなお、繰り返し演奏される。大衆から愛され
る歌謡曲やポップスは、あまたカヴァーされ、カラオケで熱唱される。舞台表現者も
モーツァルトやベートーヴェンやヒット曲歌手にならなければならないなどとはいわ
ないけれども、そこには公演の眼目となるクリエイションがあってしかるべきだ。戯
曲の創作と同じように、借りもので上演する場合、そこに演出的な創造があるのかど
うかが問われるのではないか。これは私の偏狭な考えだろうか。

実は私も、この戯曲を、ってこれですよ『流れ星』を、演出(!)したことがあるの
です。某高校の文化祭での発表のです。生徒たち自らの演出でしたが、私が指導を担
当しました。ですから正式には演出者としてのクレジットはありません。観劇中もそ
の後も、その時の稽古の現場風景が甦ってきました。あれはたしか地理教室が稽古場
だったかな。生徒みな生き生きと楽しく、かつ厳しく稽古を積んで、みるみる上達し
ました。演出的なクリエイションアはなかったです。どの口がゆうてんねん、って感
じですね。そういう意味では、良い戯曲なのです。
posted by yu-gekitai at 08:00| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5日(清流劇場を観た。)

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『ヘカベ、海を渡る』原作・エウリピデス、上演台本+演出・田中孝弥、一心寺シア
ター倶楽にて。

原作を改変し、大阪弁での上演。私は、30年以上は昔に観た、吉本新喜劇による近松
門左衛門の『曽根崎心中』を思い出していた。新喜劇の役者さんたちがギャグを封印
して、まさかという古典への挑戦であった。演出はシアタースキャンダルの玉井敬友
さん(お元気にしておられますか?)。

ギリシア劇であるからして台詞が饒舌で心の裡までをコトバにしてしまう。大仰すぎ
る所作。そして音楽の自己主張。それらは吉本新喜劇での既視感を呼び起こす。

ギリシア悲劇+吉本新喜劇。感想はこれに尽きる。俳優の演技は力強く、アクが強
い。ヘカベと侍女以外の6人はひとりで何役をも演じ分ける。ヘカベ以外はコロスと
しても登場する。私は楽しく観劇した。しかし、ベタベタの大阪弁というのは強烈だ
な、と泉州弁での芝居をやっている私もあらためて思う。オマエがゆうな、てか。東
京公演も控えているので、そちらでの反響が楽しみだ。

個人的なことを蛇足として追記しますが、ミザンスや動線の取り方など、演出の〈や
りくち〉は、私も田中氏に近い。しかし、決定的な違いがあって、音楽の使用法を含
めての好み、いうなれば美意識が、相反する。だから気楽に楽しめたのだ。どちらが
いいとか悪いとかじゃないですけれど。
posted by yu-gekitai at 06:34| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月04日

3日(『方舟にのって』を観た。)

winmail.dat
サブ・タイトルに「イエスの方舟45年目の真実」とある。監督・佐井大紀、2024年、
TBSテレビ。製作はTBSテレビだけど、劇場用ドキュメンタリー映画である。

イエスの方舟という団体には、カルト教団として世間からバッシングを受けていたの
で、少しは興味を持っていました。おっちゃん、と信者から親しみを込めて呼ばれ、
メディアからは、千石イエスと称された方そのひとにも興味がありました。当時、信
者とされる方がたは若い女性ばかりで、みんな現代的でスマートな美人ぞろい。ハー
レムを形成しているといわれました。千石イエスこと千石剛賢氏が2001年に亡くなっ
て以降も、団体はしっかりと継承されていることは、なんだかうれしかった。

だけど、映画としてはとても残念。TBSに残された当時の映像のつぎはぎと、現在も
残る、あるいは新しく参加した、イエスの方舟の方がたへのカンタンなインタビュー
と、鳥越俊太郎氏の証言でつないでみせるだけで、対象への愛情も、映画を深化させ
ようという執念も感じられなかった。製作者側の視点が明瞭でないとでもいえばよい
のだろうか。もっと取材対象の方がいなかったのだろうか。鳥越氏に頼りすぎてい
る。当時あれだけ騒いだジャーナリズムへの批評が立ち上がらないのは無残である。
テレヴィ局の製作ならば、ジャーナリズムを担うものとして、逆にもっと、踏み込ま
なくてはいけない部分があったのではないかと思う。映画をバカにしないでくれ。
posted by yu-gekitai at 16:19| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月30日

29日(日輪草旗揚げ公演『灯灯ふらふら』。)

winmail.dat
昨晩は〈ひまわり〉で、あっという間の4時間を呑んで(居酒屋に行く前からタイ
ム・リミットを設定していました。タイム・キーパーはまさかの、私でおます)、ヘ
ロヘロになって帰り着きました。酔って、というより疲れ果てて、です。

本日、本番。ワン・ステージのみ。完全ソールド・アウト。テレヴィ収録もあり。

昨日の、限りなくゲネプロに近い通し稽古のダメだし(昨晩は、退出時間がきてしま
い、全てのダメ出しができなかったのです)をして、抜き稽古、そしてゲネプロ。

開演1時間半くらい前からお客さんが集まりだし、舞台監督もやってる私は、焦らず
冷静に、ズバズバ決断を下して、いろいろなことを実行させていただきました(演出
者という立場でもあるからこそできたこと)。

いわゆる普通の観客席は、ひとり分の隙間もなく埋まりました。歌舞伎や能楽にある
ような真横から観ていただく客席も埋まり、もはや太い角柱がじゃまで見えない、客
席といえない客席までも。

一回こっきりの本番は、なかなか良かった、と私もじゅうぶんに満足できるものでし
た。ヨカッタ。

〈さぬきや〉での打ち上げも楽しく、3時間で切り上げましたよ(ほめてほしいのは
ソコかいっ!)



一般的にいえば、まだまだ演技も稚拙な俳優のみなさんたちですが、平均年齢推定65
歳、クボちゃんいわく「年齢の説得力や人生経験のリアリティ」で、観るものを納得
させるチカラがあります。みなさん旗揚げ公演の終わった今日、次回公演に向けてす
でにスタートを切りました。ものすごいバイタリティです。次回公演の演出もさせて
いただくことになってます。この方たちと出会うことができて幸せな私であります。
posted by yu-gekitai at 14:23| 京都 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

28日(日輪草旗揚げ公演『灯灯ふらふら』小屋入り。)

小屋入り、なんて書きましたけれど、何度も公演会場である中家住宅で稽古をさせて
もらっていますし、仕込みは簡単な舞台美術(キタモト)と音響さん(大西さん)だ
け。小返しをしながらの通し稽古と、限りなくゲネプロに近い通し稽古。というハー
ド・スケジュール。

ええ芝居になってると思いますけれど、お客さんとの相性がモンダイですね。こう見
えても『灯灯ふらふら』は、ちょっと難解な、現代演劇の戯曲ですからねえ。
posted by yu-gekitai at 13:47| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月28日

27日(『灯灯ふらふら』稽古。)

熊取町公民館にて。通し稽古。1時間17分。狭い部屋での稽古だったので、動線が省
略された分、時間が短くなっている。本番では1時間20分かな。



くまとり劇倶楽部「日輪草」旗揚げ公演

『灯灯ふらふら』

作+演出 キタモトマサヤ

9月29日(日)14時開演

国指定重要文化財 中家住宅にて

問い合わせは、koppa31@gmail.com まで、あるいはキ
タモトまで。よろしくお願いします。
posted by yu-gekitai at 09:00| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月23日

21日(『灯灯ふらふら』稽古。)

小返しをしながらの通し稽古。私がいうのもなんだが、どんどん良くなってゆく。油
断は禁物だけれど。



くまとり劇倶楽部「日輪草」旗揚げ公演

『灯灯ふらふら』

作+演出 キタモトマサヤ

9月29日(日)14時開演

国指定重要文化財 中家住宅にて

問い合わせは、koppa31@gmail.com まで、あるいはキ
タモトまで。よろしくお願いします。
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2024年09月18日

16日(遊劇体ミーティング。)

winmail.dat
来年度の、次回公演について。方針、は決まりましたが、まだまだ、どうなるかこと
か予断が許しません。とういうことで、詳らかにすることができませんが、実現した
ら、まあ、久しぶりに、凄い公演になりますよ。と思ってるのは私だけかな。それが
実現に至らなくても、なにがしかの公演は、やります。ちっちゃい規模でも。という
ことで、次回公演については、来年の春くらいまでは、しゃべったらあかん状態、と
いうことかな。
posted by yu-gekitai at 18:46| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月15日

15日(とうとうやりました!)

芝居とは関係ないです。

昨日の購入で、「週刊少年マガジン」の1969年発行分、全冊揃いました。別に必死に
なって集めていたわけでもないですが、何となく古書店で見つけて安ければ、という
感じで、購入を続けていて。最初の1冊を買ってから、おおよそ45年かかったことに
なります。

ついでに、1970年の発行分は、残りあと2冊で全冊揃います。あと何年かかるかな?
posted by yu-gekitai at 10:15| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

14日(『灯灯ふらふら』稽古。)

苦戦しながらラストまで、とりあえず当ることができた。おっとコールはまだだっ
た。次回は、小返しをしながらの、通し稽古だ。

今日もまた、以前のとは別のテレヴィの取材を受けた。私、しゃべりすぎ。本番も撮
影して、ニュース映像にまとめるそうだ。
posted by yu-gekitai at 09:34| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

13日(人形劇団クラルテを観た。)

winmail.dat
『銀河鉄道の夜』、原作・宮沢賢治、脚色+演出・東口次登、近鉄アート館にて。

原作はまるで当然のように読んでいる、という以上に、何回も読む機会があったか
ら、内容については知っている。わかっているのに、いや、結末が(過程も)わかっ
ているからこそ、観客席の私には切なさがつのったように思われる。モノガタリとは
そういうものだろう。知らないから知りたいというモノガタリへの欲求もある。だが
その欲求は落胆させられることも多い。古今東西の名作とは、わかっているものをさ
まざまな視点で新たに見据え、発見し、より深く知る、そういう、モノガタリを整理
整頓する楽しみにあるように思う。私は、既に知っているモノガタリを追いかけ、観
て、大いなる感銘を受けたのである。ハナシは変わってしまうかもしれないけれど、
再演三演の意味もそこにあるだろう。舞台作品を観るということは、どんなオハナシ
かを確かめに行くことではないのだ。

人形ではなく俳優が生身で演じていたら、という考えが観劇中に繰り返し頭をもたげ
た。頼りない所作の人形が私の中で生命を持ち始めるのを不思議に思いながら。これ
はつまり、人形でしか成立させ得ない舞台なのだ。あたりまえだ、人形劇だもの。文
楽とはまた別の、人形芝居の世界、これは私にとっての新たな発見だった。われわれ
の舞台での俳優の存在が、人形に食われてしまったようで悔しくも感じたが、それそ
こは、人形劇の舞台ですから、較べるのもおかしいんですけれど。

人形を操り台詞を吐き、という意味では操演者が俳優であるとも言い換えられる。黒
子に徹しながら、クリアーなトーンの台詞の響きも心地よかった。

演出においては空間の使い方が巧みで、作品にマッチした美術(永島梨枝子)と照明
(永山康英)が美しく、ラストシーンの宇宙の展開に息を呑んだ。
posted by yu-gekitai at 09:28| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

12日(『メサイア・オブ・デッド』を観た。)

winmail.dat
製作・グロリア・カッツ、監督・ウィラード・ハイク、脚本・ウィラード・ハイク+
グロリア・カッツ、73年、アメリカ映画。

この映画は、ゾンビ映画の先駆的作品として紹介されている。日本では今年になって
初めて映画館上映された。タイトルはゾンビ映画のごとくだが、原題は「Messiah Of
Evil」。つまりこれは、観て初めて理解したことだけれど、クトゥルフ神話体系の作
品だった。そこのところをはっきりさせないと、この映画の怖さオモシロさはわから
ないと思う。ただの意味不明のゾンビ映画となり果ててしまうのだ。

以下はウィキペディアよりの引用でおます。



20世紀にアメリカで創作された架空の神話であり、「アメリカ神話」とも呼ばれる。
作中では逆に、人類史の神話は太古からのクトゥルフ神話の派生であるということに
なっている。

太古の地球を支配していたが、現在は地上から姿を消している強大な力を持つ恐るべ
き異形の者どもが現代に蘇ることを共通のテーマとする。



私は、クトゥルフ神話の熱心な読者ではないが、軽く見積もって20冊くらいは書棚な
どに積読をしている。だからすぐにピンときました。この映画の売り方としては、全
くクトゥルフ神話に触れていないのは失敗ではないでしょうか。日本でも、クトゥル
フには一定数の熱狂的信者が存在するはず。きっと、ゾンビで売る方が観客を呼べる
と考えたのでしょうね。



クトゥルフ神話の典型的ともいえる内容で、そこに気づけばストーリーの先が読める
ほどわかりやすい。しかし、私は楽しめたが、他人には勧めない。暗く不気味なトー
ンの映像がつらなる。しかし、独特な美意識に貫かれている。アーティスティックで
ある。が、観ていて不安をあおられ、やりきれない気持ちになる。それにはフィラ
ン・ビショップという謎の音楽家の曲が大きく作用しているようにも感じる。タイト
ルバックのクレジットではエレクトロニック・ミュージックと表記されていたと記憶
するが、いわゆる電子音楽である。一般に知られているようなシンセサイザー音楽で
はなく、古典的な電子音楽である。

監督+脚本のハイク&カッツ夫妻は、ジョージ・ルーカスに認められて、この後「イ
ンディ・ジョーンズ」や「ハワード・ザ・ダック」などの脚本や監督に抜擢されるの
だから、この「メサイア・オブ・デッド(正確にはイーヴィル)」は、低予算の自主
制作映画とはいえ、なかなかの映画であったということを証明している。

特典のナイスな絵ハガキをもらっちゃった。

博多めぐみちゃんも昨日観てきたそうで、観てよかったと、Xに感想を書いてました
よ。



posted by yu-gekitai at 08:23| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月08日

8日(『他人の顔』を観た。)

監督・勅使河原宏、原作+脚本・安部公房、1966年、勅使河原プロ+東京映画、キネ
マ旬報ベストテン第5位。

うーん、なかなかに気分の悪い映画。私には、この映画の良さはわからない。どう
も、阿部公房さんの作品は、好きになれない私のようだ。ただし、エロチックな女優
陣は良い。それは監督の趣味かな。京マチ子さん、岸田今日子さん、入江美樹さん、
市原悦子さんまでも。

〈なめくじ酒場〉にて。
posted by yu-gekitai at 21:12| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

7日(『灯灯ふらふら』稽古。)

順調です。私の予想を超えてどんどんよくなってゆくので、うれしい驚き。稽古場が
楽しいです。本日も音響さんが来てくれて、中家住宅の空間に音楽が響きました。

入場予約は、ほぼ完売のようです。が、あと数人分が増やせるかも、という感じで
しょうか。観て見ようかな、と思われる方は、以下へお問い合わせか、私に直接、ご
連絡ください。





くまとり劇倶楽部「日輪草」旗揚げ公演

『灯灯ふらふら』

作+演出 キタモトマサヤ

9月29日(日)14時開演

国指定重要文化財 中家住宅にて

問い合わせは、koppa31@gmail.com まで、あるいはキ
タモトまで。よろしくお願いします。



次回の稽古では、この前とはまた別のテレヴィ局が取材にきてくれるそうで、本番も
収録されるそうです。ニュースみたいな感じで放送されるのでしょう。
posted by yu-gekitai at 09:30| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | キタモトのひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする